2006年10月09日

& 心配 &

よく人は、悩んでいる人達を見て”いらない心配はするな!”と元気付けたりします。でも今回の話は、”沢山心配しましょう!”って言うお話をしたいと思います。続きを読む
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2006年07月09日

& 看脚下 &

街頭も無い暗い夜道を、手元の小さな灯りを頼りに歩いている時、急にその灯りが消えたらどうする?昔ある禅師が弟子にそんな事を聞いたそうです。もちろん暗い道の歩き方を聞いたわけではなく、手探りの必要な人生を暗い道に例えて、弟子の力量を測ろうとした言葉らしいのですが。。。
その時、良しと認められたのが、この”看脚下”。”足元を見なさい”っていう意味で、至極あたりまえの答えだと思いませんか?
でもその意味は、行く末が見えず、人生に迷ってしまっている時、しっかり自分を凝視するところから始めるのが良いって事で、あたりまえというより人生の基本なのかも知れません。
私なんてともすると、良くみられたかったり人と違う事をしたかったりで、自分の現状を省みることもなく、突拍子も無い事やちょっと変わった事を思い浮かべてしまいます。
まずはしっかり、自分の足元を見たほうが良さそうですね!
posted by 殿下信平 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月16日

& 放下著 &

(前回の”知足”で、”放下著”でも書いたようにという引用をしたいることに、さっき気付きました。それで、あわてて掲載。。)

皆さんは今、何を抱えてますか? ふと手元を見て”何も持ってないですよォ〜”なんて人も多いと思いますが、このことば、”捨ててしまえ”って意味なんです。
”著”は置き字で意味を強めるだけ、”放下”がその意味を示しているらしい。もちろん、捨ててしまえの対象は、手に持っている荷物ってことだけではなく、肩に担いでいるもの、背中に背負っているもの心にひっかかっているもの全てをさすみたいですね?!

例えば悩みの素なんかでも、自分の思い込みや勘違い、生まれてこの方の生活で身についてしまった癖なんかが原因で、本当は無いところから生み出したり、小さい事をとてつもなく大きくしてしまう事ってありませんか?”冷静になって考えたら、なんてことなかった”って
こと、有ったりしますよね?!
この思い込みや勘違い、癖のたぐいから生まれてくるイメージや身体的な反応なんかが、捨てるべきものなのかも知れません!

私ときたら、ちょっとした出来事が起こる度に、条件反射のように嫌なイメージが頭に浮かんだり、不安が心をかすめたり覆い尽くしたりどうも、余分なものを抱える体制が万全のようです。(トホホッ!!)

”同じだァ〜!”なんて人いませんかァ? そういう人いたら、その人は、私の今後の人生修行の道連れになることでしょう!(爆)

それから、肩書きっていうのも、その捨ててしまえの対象のようですねェ?! 今すぐ社長をやめろとか取締役を放棄しなさいって意味じゃありませんよ!その肩書きを理由に、自分を窮屈にしているイメージを捨てなさいってことのようです。もしかしたら、努力の結果得た肩書きかも知れませんが、それはその頑張りに対するご褒美として、飾っておけば良いもの。社会生活の便宜上とりあえずついているもの、くらいに思っていた方が良さそうです。
人に対する時、困難に直面する時(その他いろんな場合)その肩書きを基準に何かを考えても、それは自分を窮屈にしたり、人に余計に嫌な思いをさせるのがオチ。生きる上での基本的な部分には、なんら役にたたないのです。だから”捨ててしまえ!”って。。。

肩書きって、仕事上の名刺にでてくるものだけじゃないようですよ?! 親だったり、親友だったり、旦那だったり、奥さんだったり、そして○×大卒業だったり、▽◇団体所属だったり、私たちを修飾するものって沢山ありますよね。
私が悩んだり、イライラしたりする時って、ここに上げたような立場やステイタスを基準に、自分自身や周囲の人のことを測っているような気がします。ここでも、抱え込みの体制万全!!(汗)

こんな話で、少しでも共感を持ったあなた! 私と一緒に”捨て去りの人生修行に旅立ちませんか?”(爆)
長年の習慣で、身についたもの、癖のように浮かんで来るイメージ等捨てるのは、とっても難しいものばかりで、前途は大いに多難ですが一つ一つ、地道にまいりましょう。

posted by 殿下信平 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月29日

& 知足 &

手に入れたい物、起こって欲しい出来事、得たい名声や誉め言葉等々沢山抱いてたりしませんか? 私としては、名声はどうでも良いですが、その他は、頭でっかちになってバランス取れないほど沢山頭の中を渦巻いています。いかにも煩悩の塊! f(^^;)

そんな私のような人に対して、よく知識人が、この「知足」”足るを知る”っていう言葉を引用します。大抵の場合”今の自分に満足して高望みをするな”のような意味で言われているようです。
これ私だけの感じ方かも知れませんが、この言葉で、今以上を望まない「我慢」が美徳かのように表現されたり、下手をすると”分相応””身分をわきまえろ”的に使われて”君はそういう立場なんだから”と、言われる側の範囲を制約するキーワードにされたりってことも、極端にいうと有るような気がしています。このような使い方だと、人を制約し可能性を摘み取るような言葉にもなりかねませんよね。本来禅語って、人の妄想の柵を解いて、悟りに向けて開放するのを助ける言葉ですから、そのような引用の仕方では、いい事言っているようで実は相手を制約したり見下している事になる。使い方は非常に難しい
言葉だと思うのです。

でも、不勉強ながら私が本で読んだ「知足」は、ちょっとニュアンスがちがうんですよね!欲しいものは有るのに我慢するっていう消極的なものでも無く、現在の分相応ってことで、自分の立場居場所を制約するものでも無い。本来の意味は”現在の自分を肯定する”って所にあるようです。
現在の自分は、生まれてから今までの生活の積み上げと、折に触れた自分の選択の結果。そこを認識しなさいと言う事みたいですね。

ともすると、過去に自分が選択しなかった方の結果が良いと、タラ・レバで話をしたり、まだ努力もしていないのに、その結果だけを望んでしまい、考えの基準を、自分の選んでいない所やまだ生活積み上げていない浮いた場所に置いてしまいます。当然それは根の無い基準点ですから、そこから現在の自分を見ると”足りない”って思ってしまうわけです。でもこの”足りない”は、放下著でも書いた妄想の類に違いなくて、禅語の「知足」は、そんな考えが妄想じゃないのかと問いかけて、現在の自分に気付かせようとしているんじゃないかと思うのです。
でも、今の世の中、あぶく銭を手にしてその妄想の中でふんぞり返って好き勝手言ってる人や、そう成りたいという妄想に”足りなく”て苦しんでいる人が、なんと多いことでしょう。
(私も、後者の部類かな?! 汗)

基準はあくまで、自分で選び積み上げた根のあるところに存在する。自主的に作った現在の場所ですから、そこは人に恥じる事もなく納得すべき場所ってことのようですね。妄想なんかに囚われることなく、積極的にそこを認識すればいいだけで、何も他人から我慢を強要される必要は全く無いのです。
それから、この言葉は今後の望みについても、なんら制約していないと思うのです。現在の分相応ってやつに人を縛りつけるのではなくて希望があれば、積極的な現在の自分認識の上で、その望みに向けて生活を積み上げ、正しい選択をしていけばいいってことのような。。。

話が発散してしまいそうですが、要は、「足るを知る」っていうのはとても有意義な言葉だけど、そう言われたからといって、我慢したり自分を制約したりする必要は有りませんよ!と言いたかったのです。

皆さん、選択してなかたり、積み上げてもいないところに基準を置くような妄想に囚われず、現在の自分認識をしっかりとして、自由に明るい未来を目指しましょうネ!!
posted by 殿下信平 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

& 日々是好日 &

これって、割と目にする言葉じゃありませんか? 私の持っている本では”ニチニチ コレ コウニチ”と読まれています。受験生向けのお札なんかにもありますよね?! 人を励ます時によく使われる言葉のようですが、この言葉の意味が、「毎日が大安吉日」っていうような意味ではない事をご存知ですか?

”物事気の持ちようだから、どんな事があっても良い日だと思おう”って無理したところで、本当の気持ちは欺けません。『やっぱり本当は、嫌な事沢山有ったよなァ〜!』って気落ちするのがオチですね! かと言って、毎日嫌な事の一つも無く、嬉しい出来事ばかりに恵まれている人も、きっと滅多に居ないと思うのです。だとしたら、どんな時に”日々是好日”って言えるの? どんな人がそんな風に思えるの? って、考えちゃいますよね?!

禅語としてのこの言葉は、嫌だと思うその気持ちの手前で考えるべき内容のようです。そもそも自分にとって良い事・悪い事と、物事を区別するこだわりから離れなさいと言っているみたいですネ!

もともと事の良し悪しなんて、どちらかというと好き嫌いという気持ちに根がある事が多くありませんか? 例えていうと”良い天気”は大抵は、晴天の事を言いますよね? だけど雨天は悪い天気? 日常生活の都合で、そう言われる事も多いでしょうけど、お百姓さんは雨が降らなければ困るし、たとえサラリーマンでも渇水で水が飲めなくなれば、やっぱり困る。雨の降る雰囲気が好きだっていう人も居たりする。決定的な区別の基準なんてありませんよね?! そんな曖昧なものなのに、何か自分の中で勝手に良し悪し決め付けてはしゃいだり落ち込んだりしてしまう。私も多分にそうですが、皆さんもそんな感じじゃありませんか?

ですから「日々是好日」は、そんなこだわりを離れて、あれも良いけどこれもいいんじゃない? ってことに気付きなさいと、言っているようですね! 晴天の日は太陽が元気をくれる。しとしと雨の日は、雨音が心落着かせてくれる。嵐がくれば、嫌な事をみんな洗い流してくれる。なんて心から思えるようになれば、それが「日々是好日」!!

無理やり思おうとするのではなく、本来そうなのだと気付くことが、大事のようですね?!

そこに向けてのキーワードは”今を生きる”っていうこと。晴れなら日の光の中で元気に遊び、雨の日はじっくり読書や思索に耽る。人によっては、雨の中で泥水だらけで遊ぶのが楽しいって事もある。その人なり、その状況なりの楽しみ方は、一律ではないにしても、きっと
何かの形で有るし、そこに浸ればいい。逆に、雨の中運動するのが嫌いな人が、雨の日だと判っているのに、サッカーやりたいと外に出て、重い傘を片手に雨なんか嫌いだと考えているのは、いかにも不幸だし不器用ですよね?!
もともと、私達に許されているのは”今”というこの時だけ。嫌だと思って、憂鬱な時を送るより、人なり状況なりの今を、楽しんで活かして積み上げる方が、きっと幸せに近づけますよね!

またまた、判ったような判らないようなお話ですが、なにかヒントには成りそうな気がしませんか?
posted by 殿下信平 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月07日

& 残心 &

この言葉、字を見ると、心を残すってことで未練や心残りを表すように見えますが、その意味では無いそうです。未練や心残りが過去の人や物、出来事に心残すのに比べて、今以降の現在・未来に向けて持つべき積極的な思いのことのようです。次に備える気持ちっていう部分もあるかも知れません。

私はというと、この言葉を見て(禅語を見ている事も忘れて)、情け無いことに最初に”心残?!”と浮かんでしまいました。事実、過去を悔やんだり、”たら・れば”で物事考えたり、いかにも後ろ向きな生活している自分が居ます。後ろ向いてるうちに、次々訪れるその時時の"現在"を活かしそびれて、またそれを心残りにする。まさに悪循環ですよね?!

今を一生懸命に生きて、いつものように後ろ向く代わりに次に備えたまたは次に活かすための気持ちをもち、それに基づく行いが出来ればそれがここでいう残心。
心構えが出来ているから、次々訪れる現在も無駄にせず、活かす所は活かし、楽しむところは十分に楽しみ、きっと辛く悲しいことだって取り乱すことなく受け止めることができる。

これって、いろんな場面にあてはまりますよね! 日常生活・仕事・娯楽 etc.

後悔先に立たず。未練残しても、”感傷に浸る”という或る意味偽りの心地良さがあるだけで、何も変わらない。未練心・心残りに費やす時間と心の容量を、その”残心”に充てられないかなと、思います。

まず手始めに”あッ今後ろ向いてる!”なんて事くらい気付けるようちょっとだけ、心構え変えてみましょうかね?!

さあ皆さんも、心は過去に残さず、未来に向けて残しましょう!!
posted by 殿下信平 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

& 竹影掃階塵不動 &

月穿潭底水無痕と続きます。私の好きな禅語の一つです。

どちらも、ものごとにとらわれない人の行動を表しているらしい。
前半は、風にでも吹かれたのか竹が揺れて、その影が階段の上を掃うけれども、塵は動かない。
後半は、月が照らして、その光は池や沼などの底まで届いているけれども、水には何の痕跡も残っていない。
っていうような意味のようです。

ともすると、根拠の無い思い込みをしたり、人の目を気にしたり通例という環境に惑わされたりして、自分らしい行動がとれなくなってしまいます。(私の場合)
要は、竹の影が動いたのをみて、何故か動いてしまった塵であり、月の光が自分を貫いているからと、変形してしまった水なんですね、私。
こう考えると不自然な行動ばかりとっていることになるんですが慣れとか環境などに惑わされて、日頃気付いて無いわけです。

動かない塵,痕跡を残さない水になれるよう、実生活の中でも早く気付かなくちゃいけませんね?! 主体的に生きる自分に!

 ※主体といえば、禅者の行いとして”竹影”や”月光”として捉えられてますが、主体を、塵や水として捉えることも出来るかなと自分なりに。。。

蛇足
 竹を揺らした風は、近くの階段にも吹いていて、その風で塵は動いたんだとか、光は波と粒子の性質を持っているので、ミクロに見ると水にも影響があるんじゃないか、などという屁理屈は、このことばを見る(読む)際には、不要だと思いますヨ!!(笑)
posted by 殿下信平 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 禅語で自照 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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